東京外国語大学 AA研 チベット牧畜文化辞典編纂チーム 運営
 

འབྲོག་པའི་པོ་ཏི།

チベット牧畜文化ポータル

アムド牧畜民の「変化」と「継続」

2019年12月22日UP
カテゴリー/宿営地と放牧地
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© Hirata Masahiro

チベットの牧畜民のことを記した河口慧海は『第二回チベット旅行記』のなかで「遊牧民はその名が示すが如く、一拠定住の家を有せず、天幕を有し水草を逐うて牧畜するもの」と述べているが、「彼らは水草を逐うて奔るといえども……大抵毎年毎月、期に応じて行くところ一定にして、……殆ど同じところを廻れるなり」とも記している。すなわち、19世紀の遊牧民といえども草地を自由に使っていたわけではなく、ほぼ決まった場所を移動しながら放牧をおこなっていたと考えられる。近年の中国では、環境保全や近代化の観点から草地の私有化が実施されており、牧畜にはさらなる移動の制限が課されている。加えて、辺境にも様々な商品が流入するなかで、衣食住のかなりの部分を家畜に依存するという牧畜の生活スタイルも成立し得なくなっている。

社会経済状況が変化して牧畜という生活スタイルが岐路に立つ一方で、人びとは今も自然草地を基盤としながら家畜を飼い続けている。その「変化」と「継続」のなかで牧畜民と自然環境との関わりはどのように展開されているのかを、我々の調査チームが短期間お世話になった青海省南東部のR家の事例に基づいて概説したい。

2015年の夏、R家はで囲われた斜面の草地でヤクの放牧をおこなっていた。R家に配分された草地は黄河流域に含まれる小さな二つの谷である【図1】。青海省では平坦な草原で放牧がおこなわれることが多いが、R家の草地は山がちであり、あまり良い放牧地ではない。草地の全体を取り囲む高さ1メートルほどの柵は主人自らが設置したとのことであった。中国では外国人のGPSの利用が禁止されているため、観察した地形に基づいて帰国後に柵の範囲を概算したところ、全体はおよそ160haであり、内部はさらに柵によって三つに区分され、70haずつが夏用の草地と冬用の草地として区分されていた。

【図1】放牧地の見取り図

実線で示した範囲はほぼ全て柵で囲われており、その内部は三つに分かれている。白い破線はヤクの放牧ルートを示しており、谷を遡った後は自然と下りてくる。

※ 衛星画像Landsat ETM+(2001年8月撮影)を用い、標高データはASTER-GDEMを用いて合成した。 立体見下ろし図

放牧の拠点となる宿営地も夏用と冬用とがある。夏営地の標高は3,300mほど、冬営地の標高は3,450mほどであった。ヒマラヤでは標高差によって生じる環境の違いを利用した「移牧」がおこなわれる地域もあるが、ここでは標高差はあまり重要ではなく、風通しの良い丘の上に夏営地を設け、強風を防ぐことができる谷間に冬営地を設けていた。夏営地と冬営地の距離はおよそ1.4km、歩いても一時間ほどの距離であった。草地が私有化される以前の夏営地と冬営地はもっと離れていたという。

夏営地の基本的な構成は【図2】で示した。夏営地には土塀の家屋が立てられており、そこに隣接して白テントが設置されていた。アムドの牧畜民は、かつてはヤクの毛織りの黒テントを用いて暮らしていたが、現在は観光用を除いて黒テントはほとんどみられない。我々の訪問時、夏営地には5人ほどが小屋とテントで寝泊まりをしていた。夏営地にはこの他、ヒツジの囲いヤクの囲いがあり、ところどころには燃料として利用する乾燥させたヤク糞の小山があった。

【図2】R家の夏営地の見取り図
カッコ内はアムド・チベット語での名称を示している。この夏営地には、通常は土塀の家屋の他には白テントが設けられているのみであるが、この時は来客用のテントが設置されていた。サンを焚く壇では毎朝毎夕、ツァンパ (麦こがし)やビャクシンの葉などが焚かれ、その周囲で法螺貝が吹かれる。

母ヤクとその仔は、乳が飲めないように特に分ける必要があるため、夜の間、地面に貼られたロープに係留される【図3】。訪問時のR家では17頭の搾乳中のヤクがおり、さらにその仔が16頭いた。搾乳をしない雌ヤクと去勢した雄ヤクなど合計で30頭は、夜間にはまとめてヤクの囲いに入れられていた。これらを合計してR家が日常的に管理しているヤクは60頭ほどであった。この他300頭ほどのヒツジを所有しているが、R家の草地は豊かではないので、訪問時には他家に放牧を委託していた。

【図3】ヤクの母仔が対面で繋がれている

牧畜民の夏の朝は6時くらいからヤクの糞を拾い集める作業で始まる。ロープに係留されたヤクの周りにある糞を集め、広げて乾燥させる。糞を集める作業が終わると7時くらいから搾乳が始まる。ヤクはホルスタインのような改良品種ではないので、いきなり人間が搾乳してもあまり乳は出ない。そこでまず、仔に乳を吸わせて乳の出を良くしてから搾乳するのである。また、全部搾ってしまわないようにして、少しだけ仔に残す。搾乳時間は一頭あたりおよそ5分、量は1Lほどである。搾乳は朝夕2回おこなわれるので、一日の搾乳量はおよそ40Lとなる。搾乳はだいたい9時前に終わる。

搾乳後に朝食を取り、それから放牧に出す作業が始まる。ヤクは、大きく成畜の群れと仔の群れ(0–2歳)に分ける。成畜の群れは、掛け声や投石紐などを使いながらゆっくりと一時間くらいかけて谷を追い上げる。日中はヤクのそばに人は付かない。草地の周囲には柵が張り巡らされているので、ヤクの移動範囲は制限される。ヤクは草を喰みながら柵にぶつかると折り返し、夕方には自然と夏営地の近くまで戻って来る。それらを集めて営地まで連れ戻し、搾乳をして一日の作業が終わる。

糞を集め、搾乳をおこない、放牧に出すといった家畜を飼ううえでの基本的な作業は、草地私有化の以前と以後でも大差はない。しかし細部では違いもみられる。かつては、戻って来ない家畜を探しに探し周り、他家を尋ね歩くことも珍しくなかった。現在は柵があるので家畜を探しに行くことも少なく、自然と宿営地の周辺に戻って来る個体も多いので放牧作業もやり易くなっている。一方で、柵で覆われた範囲よりも外の地理や自然環境に関する知識は確実に減少しているし、所在を尋ねる際に用いる家畜の外貌表現に関する語彙も減少する傾向がある。

こういった伝統的な様式の変化は、放牧作業だけではなく衣食住や教育など生活の全ての側面で生じている。ややもすると高地に住む牧畜民は孤高の存在と捉えられがちであるが、実際には交易などを通して周辺の地域と密接に関わってきたわけであり、周囲の状況が変化するなかで牧畜民の生活も変化せざるを得ない。失われゆく伝統を嘆いたり、逆に新たに導入される政策や技術を批判するだけではなく、両者がどのように融合しているのかを探るのがこれからのチベットの牧畜研究者の役割であろう。


文・作図:山口哲由
写真:平田昌弘
初出:SERNYA 3号 8–11頁