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子供の成長を祝うー幼児の髪切り式

2019年11月23日UP
カテゴリー/冠婚葬祭
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© Kuranishi

1.通過儀礼と頭髪

通過儀礼は、人が誕生してから社会的存在となり、成人、婚礼、長寿の祝いを経てやがて死に至るまで、人生の区切り目に行われる文化的行事である。ここでは牧畜社会の通過儀礼の一事例として、幼児の髪切り式を取り上げる。

多くの伝統社会で、毛髪の形状と社会的身分の変更に連動性が見られる。例として挙げれば、女性は成人すると髪を結い上げるし、俗人は剃髪することで仏門に入る。ここで示すヌフトンと呼ばれる幼児の髪切り式もまた、頭髪の除去と共に対象者の社会的位置づけが変化するという点で、社会的な時間の中に個人の生涯を基礎付ける通過儀礼の一般的機能を体現するものということができる。

髪切り式の対象となるのは、三歳を迎える幼児である。チベットには満年齢の考え方はなく、年齢は数え年で進行し、かつ母親の胎内にいる時間も計算に入れるため、子供は生まれてから早くて一年と数か月で三歳を迎えることになる。

髪切り式で除去される髪毛をヌフチャと呼ぶ。フチャは頭髪であるが、「ヌフチャ」と呼ぶ場合、出生時に生えていた髪のことを指す。血液や胞衣と一緒に誕生した新生児は男女ともに、誕生直後に産湯を使って清浄にされるが、頭髪については頭部を保護するためと保温上の目的から、三歳のロサル(農暦の正月)の日を迎えるまで基本的にそのままにされる。髪切り式はこの誕生以来身体に残ったままとなっている頭髪を取り除くことにより、正式に人間社会への加入を果たすという儀礼的意味を持つ。以下に現場で観察された髪切り式の次第を示す。

2.髪切り式の段取り

① 髪切り式に当たって、当日子供に着用させる服や、髪の毛を切るためのハサミを新調する。子供の衣装は上下揃いの新しい服を準備する。子羊の毛皮を縫い合わせたツァルを用意できれば最良である。また、ハサミの親指側の持ち手には白いウールを撚り合わせた「ワジェム」と呼ばれる縁起の良い印を結び付ける。

② 髪切りの日は、正月一日や三日、五日などの奇数日が選ばれる。髪切りを行うのは午前中と決まっている。実際に頭髪にハサミを入れる役を担うのは父方のおじが望ましいとされるが、そうでない場合でも、親戚の中で経済条件がよく、信望の厚い落ち着いた人物が髪切り役を依頼される。当日、父方・母方双方の親戚が子供の着物や靴、おもちゃ、乳製品などの手土産をもって幼児の家を訪問する。僧侶や在家行者がいる家では招福のための経文を読誦する。

ワジェムが結びつけられたハサミ

③ 髪切り役に選ばれた人物は当日、体を念入りに清め、晴れ着を着て現れる。家族が準備した白い清め水(温水にミルクを加えたもの)を使って入念に幼児の頭部を洗い清めたあと、幼児の頭頂部と額にバターを塗りつける。ハサミでつむじの位置にある頭髪をつまんで切除する。その後、首から上に左右の髪の毛を刈り上げる。この際、口中で「ツェラン」(長寿)や「サムドン・ドゥッパ」(万事が成就するように)などのめでたい言葉を唱えるのが習わしである。

④ 髪の毛の刈り上げ方には、頭頂部の髪の毛のみを残してトルコ石などの宝石をあしらった「ララ」と呼ばれる赤い紐を巻き付け、背中に垂らして祝福の印とする場合と、全体にまんべんなく短く刈り上げる場合の二通りがある。ひととおり髪の毛を刈り終えたら、頭髪をまとめて団子状に丸め、毛糸をつかって縫い固めた上で幼児の着物の後ろ見頃の襟元に縫い付けておく。これも「ヌフチャ」と呼ばれ、幼児が順調に、丈夫に育つためのお守りの意味を持つ。また、ちょうどこの髪切り式が終わったあたりから子供の口腔内に水疱ができることがあるが、そうした場合にこの毛髪の団子で幼児の口の周りを触れてやると治りが良くなるという。

毛糸で縫い固める
お守り代わりのヌフチャ

3.まとめ:髪切り式と人生

以上の式次第をもって、子供が正式に社会の仲間入りを果たしたことが親族一同の間で確認され、その後の順調な生育と健康長寿が祈願される。

チベットでは、よちよちながらも歩けるようになり、口から言葉らしきものを発し、おぼろげながらも人語を介するようになったら、それ以前の人形のような状態から抜け出し、人としての意識を獲得した、と見なす。人として現世に生を受けることは、「人の体は宝物」(ミリュ・リンボチェ)という彼らの慣用句にもある通り、大変貴重なことである。仏教の六道輪廻の考え方では、人間よりも下のステータスである地獄・餓鬼・畜生の三道に属する生き物は、自らの意識の中に慈悲の心を育てることができない。このため、戒律を守って功徳を積むことも、他者に功徳を振り向ける利他行を行うことも原理的に不可能とされる。髪切り式には、このように意義深く大切な人としての生を受けたことのありがたみをかみしめ、子供のためにそれを祝うという、「加入儀礼」(イニシエーション)としての意図が色濃く付随しているのである。


文:別所裕介
イラスト:蔵西
写真:海老原志穂
初出:SERNYA 4号 29–32頁