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神の居場所を造る その3 ラプツェをめぐる考察

2020年05月03日UP
カテゴリー/牧畜民の宗教文化
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以下では、ラプツェ造営をめぐる仏教伝統と民間信仰の複合性について少し考えてみたい。ここでいう「仏教伝統」とは、今回導師を務めたジャンゴ・リンボチェのような化身クラスの高僧によって体現される、高度に抽象化された密教儀軌の知識体系を意味する。他方「民間信仰」とは、仏教とは異なる次元で、ローカルな生業体系と密接に関わって維持されてきた、土地神信仰を筆頭とする土着伝統である。

先に見たように、ラプツェを地上と地下の二層構造を持った一個の宗教施設として捉えると、両者の関係はちょうど仏像仏塔でいうところの依り代(容器)内蔵品の関係と同じ構成になっている。この場合一般に、後者の内蔵品がなければ前者は単に空っぽの「入れ物」に過ぎない(ちなみに日本仏教では仏像の中に「五臓六腑」や「胎内仏」と呼ばれる像内納入品が見つかることが多いが、そこでの趣旨もまた、単なる模造品としての仏像に「内側から発するエネルギー」を与えることであったと思われる)。このため、ラプツェ造営にかかる全体プロセスの中でも、土地神の力の源泉となる埋蔵供物を納める工程はもっともセンシティブで、もっとも緊張を強いられる場面となるのである。

アムド地方でよく見られるタイプの仏塔

一般にラプツェを中心とする土地神信仰はチベット古来の民間信仰の系譜に属し、仏教とは一線を画すものと捉えられてきた。しかし、こうしてラプツェの造営過程を見ていくと、チベット仏教の宗教的特質にまつわる「依り代」と「内蔵品」の関係がここにも表出していることがわかる。そしてこの場合も、その宗教的霊力をより本質的に規定するのは、「ラプツェの地上部分」(依り代)ではなく、人々の目から隠されている「地下部分」(内蔵品)の方なのである。それゆえにまた、少なくともラプツェを最初に造営(もしくは再建)する際には、手続き上仏教側からの手助けが不可欠となっているのであるが、一度開眼が済んでしまえば、あとは村落組織が自律的に祭儀をルーティン化することができる。こうして新たに再建されたラプツェは、僧院に暮らす出家者の理想とはかけ離れた、世俗の人々の願望に根差した現世利益を希求する場として末永く機能していくことになるのである。

開眼にかかる全ての儀軌を終え、満願成就したラプツェ

以上見てきたように、村人総出の大掛かりな儀式を一致団結して挙行することで、土地神がいかんなくその霊的守護力を発揮することができる「場」を造り出すことがラプツェ造営の目的であった。様々な高貴な地下アイテムを満載し、高僧の霊力によって加護されたパワースポットとしてのラプツェは、一度設置したあとは、毎年初夏に行われるラプツェ交換の祭儀や、正月(ロサル)に行われるルサンなどの特別な焚き上げの場として末永く利用されていく。

ロサルの期間中に神山山中で焚かれるルサンの様子(アムド東部のシュンホワ(循化)県ガラン郷,2007年2月)

ここにあるのは、土地神に対して雅やかで快適な住居を与え、その見返りに自らの日常生活の安全を守ってもらおうとする「贈与交換」の論理である。ただ、この契約的互恵関係は永続的なものではない。ちょうど私たちが使う工業製品にバッテリーの寿命があるように、ラツェの宮殿に内蔵された宝瓶にも寿命があるのである。これは村の長老たちから伝聞した話であるが、通常宝瓶は埋蔵後、地面に接した直後からスイッチが入った状態になり、それが内蔵する呪力は壺の壁から滲みだして地中に徐々に放出され、内容物の腐敗に伴って減退していくのだそうだ。電池が揮発性の動力であるのと同様、宝瓶の霊力もまたそれに似た性質を持っている。

こうして、世紀を超えてラプツェに内蔵されたバッテリーが朽ち果て、もはや村人を守る霊力を発揮しえないと、当の村人たちに観念された暁には、まるで機械の電池を入れ替えるように、再びラプツェの造営が行われるのである。その日がいつかやってくるまで、土地神はそこを拠点として、精一杯人々に庇護の力を投げかけてくれるはず、という人々の揺るぎない信念が、この郷土色満載のユニークな民間信仰の根幹を今日も支えている。

完成したラプツェを遠望する(白く雪が積もったように見えるのはルンタ)

文:別所裕介
写真:ナムタルジャ、海老原志穂、別所裕介