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神仏へ捧げる家畜-チベットの放生・ツェタル

2019年11月23日UP
カテゴリー/牧畜民の宗教文化
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© Tsumagari Shin'ichi

アムドの牧畜地域を旅していると、耳や首に鮮やかな色の布を付けたヤクやヒツジを見かけることがある。これらの動物は牧畜民たちが放生(ツェタル)をした家畜であることが多い。牧畜民たちは飼育する家畜の中から数頭を選び、目印を付けてその屠畜を禁じることで、家畜たちの生命を解放するのである。このように動物の生命を解放する行為、及び屠畜を禁じられた動物のことをツェタルと言う(樹木に布をかけて今後一切切り倒さないことにする、樹木のツェタルというものもある)。

ツェタルに選ばれる動物の種類や頭数、年齢は様々である。またツェタルを実施する日は占いや暦によって選択されることが多いが、近隣地区に高僧がやってきた際に大規模なツェタルが行われることもある。ツェタルを実施する日、牧畜民たちは予め選んでおいた家畜の耳や首に菩提心結び(チャンチュプ・セムドゥ)と呼ばれる五色の布を縫い付け、その後、浄化と祝福の意味を込めてミルクを注ぐ。

放生(ツェタル)をする家畜に縫い付ける五色の布と紐
耳と首に五色の布と紐を縫い付けられた家畜
放生(ツェタル)をする家畜にミルクを注ぐ

そして経文を唱えながら、その家畜を屠らないと誓うのである。儀礼の手順には地域ごとに違いがあり、ある地域では家畜にバターを塗りつけることもあるらしい。こうしてツェタルの資格を得た家畜は、牧畜民の宿営地から解放されたり、近隣の寺院に寄進されることもあるが、そのまま牧畜民の宿営地に留め置かれることも多い。

今日では神仏に動物を奉献する行為、及び神仏に捧げられた動物もツェタルと呼ばれる。神仏に捧げられた家畜は神のヤク、神のヒツジ、神のヤギなどと呼ばれ、神仏の所有物や乗物、あるいは依代と見做される。神仏に対する動物奉献の歴史は古く、敦煌から出土したチベットの古文書には為政者がヤクやヒツジを自身の守護神に捧げることで政治的繁栄を祈願したという記述もある。神々に家畜を捧げることで神徳を得、生活の安寧と繁栄を願う行為は恐らく仏教以前から行われていたのだろう。

ところで青海省で実施されたある調査によれば、ツェタルの頭数は近年増加傾向にあるという。その理由は二つある。一つは、同地域に於ける民族的アイデンティティの復興と増幅の中で、チベット仏教の慈悲と利他の精神に基づくツェタルの実践が見直されているということ。そしてもう一つは、同地域で採集される冬虫夏草の市場価格が高騰し、牧畜民の経済活動の主軸が家畜から冬虫夏草の採集へシフトしたことによって、ツェタルの頭数を増やしても彼らの家計のやりくりにそれほど大きな影響が生じなくなったという状況がある。

このようにかつては専ら宗教的信念に基づく行為として位置付けられていたツェタルも、近年の様々な政治的・経済的情況の変化の中で、その実施の契機や意義に新たな要素が加わりつつあるようだ。


文:津曲真一
写真:津曲真一
構成:岩田啓介
初出:SERNYA 3号 48–49頁