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草原のめぐみを食べよう その7 菜食主義牧畜民の食卓

2021年09月15日UP
カテゴリー/食文化
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© Hirata Masahiro

2018年の年末、牧畜民の冬営地に移動する途中で、青海省黄南州ツェコ県のM鎮郊外の牧畜民夫婦のお宅に一晩、泊めていただいたことがあった。幹線道路沿いにあるそのお宅では80頭のヤクを飼育していた。夫婦はともに40代後半。4人の子どもたちはみな就学のため家を出て街に住んでいるという。急な来客であったにもかかわらず、肉をゆでて夕食に出してくれた。主人とわれわれが肉をいただく傍らで、それを出してくれた妻のTさんは、トマ芋の溶かしバターがけを食べていた。話をうかがうと、ある高僧の勧めに従い、一家の中で彼女だけ2年前から肉断ちをしているという。

菜食主義の広まり

菜食生活をはじめる約1年前 (調査時点の3年前)、Tさんは友人に誘われ、四川省にあるチベット仏教僧院、アチェンガル・ゴンパを訪れたという。数万人の修行者が滞在する巨大仏教学院であるアチェンガルで、Tさんは、「不殺生」と「放生」を強く提唱する有名な出家者の教えに共感を覚えたそうだ。それからは1年に一度はこの僧院を訪れ、1週間程滞在して仏教を学ぶようになった。後に、家畜を殺さない誓いをたて、肉断ちもするようになった、という話をとても嬉しそうにTさんはわれわれに語ってくれた。

家畜を飼うことを主な生業とする牧畜民が、肉を食べない生活を送るということは、従来であれば栄養的にも継続が難しいことであったが、現在は穀物や豆、野菜など代替となる食品の流通に支えられそれほど困難ではないとのことであった。Tさん夫妻によると、2007年から2008年頃からチベット人の菜食主義者は急激に増え、2014年頃からはその数は高止まりの状態であるという。村の中では、完全に肉断ちをしないまでも、1ヶ月のうち8日間は肉を食べない、1年のうち4ヶ月 (1, 4, 6, 9月) は肉を食べないなど期間を決めて肉断ちをする人も増えたそうである。また、屠畜した当日の肉(ニンヒャ)は罪障が大きいと考えられており、当日はその肉を食べないという習慣もこの村にはあるという。

菜食主義の食卓を支える野生植物

肉類、卵を食べない菜食主義者であるTさんは毎日どのような食事をとっているのだろうか。インタビューをしたところ、一日の食事はおおよそ以下のようなものだという。

朝食:
ツァンパ (麦焦がし、バター、乾燥チーズ、お茶)
昼食:
トマ芋の溶かしバターがけ
夕食:
野菜を餡にした蒸し饅頭
溶かしバター (左) と茹でたトマ芋 (右)
器にもったトマ芋にたっぷりと溶かしバターをかけ、ツァンパをトッピング

街で買ってくる野菜の他、Tさんの食事を支える重要な食べ物は、野生植物のトマ芋である。乾燥保存することにより、来客時や、正月などの慶事の食事にトマ芋が利用されることは「草原のめぐみを食べよう その5 ハレの日を祝うトマ芋」でも述べたが、このトマ芋は菜食主義の牧畜民の食卓にも登場し、年間を通して彼らの健康を支えている。


文:海老原志穂
写真:海老原志穂、平田昌弘