草原のめぐみを食べよう その8 野生植物の食利用とチベット牧畜民 (最終回)
チベット牧畜民の一日の食生活は、朝食はツァンパ(麦焦がし)、昼食はパンまたはご飯と肉と野菜の入った野菜炒めのようなおかず、夕食は肉の入った麺類が定番である。多少の地域差はあるが、日本人のように毎日違う献立をたてる、というような観念はなく、夕食が肉饅頭になったり、水餃子になったりするくらいでほぼ毎日これが繰り返される。利用される食材は、肉、ミルク、バター、ヨーグルト、チーズなどの乳製品、そして麦類である。肉と乳製品はいずれも家畜から得られる食材であり、麦類のみは、農村部、都市部との交易を通して得てきた。
野生植物の食利用に注目する意味
肉、乳製品、麦類の組み合わせや調理法を変えて供されるチベット料理。筆者がこの連載で野生植物の食利用に注目してきたのは、この固定化されたチベット料理観に風穴をあけたかったという意図の他に、野生植物の食利用という観点から、牧畜民の暮らしをとらえなおしてみたかったからである。それでは、野生植物を通して、実際、どのようなことがみえてくるのだろうか。
牧畜地域で食利用されている野生植物
筆者らが牧畜文化語彙収集のために訪れていた青海省黄南州ツェコ県のM鎮は、森林に近接し、チベット高原の中では植生が比較的豊かな場所である。そして、ここでは、夏場にかけて野ネギ、イラクサ、キノコ、トマ芋、スイバ、ダイオウ、野生果実などが採れ、それらの食利用がみられた。その他、記事ではあつかっていないが、お茶やパンの香りづけ、肉饅頭の具として利用される香草類 (シャンショッカ、タガ) などもある。
チベット高原は高地寒冷な場所が多いが、地域によっては、ツェコ県北部M鎮のように、またはそれ以上に豊かな植生にめぐまれ、野生植物の食利用がみられる地域がある。チベット・ヒマラヤ地域では甘粛省南部、四川省のリタン、ネパールのムスタンやドルパタン、ブータン、ラダックなどの事例が報告されている (Boesi 2014, Kang et al. 2014, Kang et al. 2016)。複数のチベット人居住地区で野生植物について調査を行ってきたBoesi (2014) によると、街や(農)村よりも辺境や牧畜地域において、野生植物の食利用がよくみられるという。もちろん、野生植物は毎日のように食される肉、乳製品、麦類などとは異なり、チベット人の食文化の中心的なものではない。しかしながら、野菜や果物の少ないチベット人の食生活を補い、味や見た目によって食卓に彩りをそえていることは確かである。具体的にはどのような特徴がみられるのであろうか。これまでの連載を通してみえてきた、東北チベット牧畜民の野生植物の食利用に関する特徴を、以下、3点にわけてまとめてみたい。
- 1 季節限定
- 野生植物は年間を通して利用可能なわけではない。上述のように、植物がよく生育する夏を中心に採取できる。そのうち、イラクサ、トマ芋やキノコなどは乾燥して保存することも可能ではあるが、多くの野生植物は保存はされず、採取してから数日のうちに食される。このように、多くの野生植物は、一年のうちのかぎられた期間しか味わうことのできない季節限定の食材である。
- 2 特別な時の食卓に
- 1でも述べたように、野生植物のうち、イラクサ、トマ芋、キノコは乾燥させて保存することが可能である。乾燥キノコは売ってしまうことが多いようであるが、イラクサ、そして、トマ芋は、来客時や、正月、法要などの慶事の食事に利用されている。
- 3 修行者や菜食主義者の食を支える
- イラクサについて紹介した「草原のめぐみを食べよう その2 おいしいものにはトゲがある」では、聖者ミラレパが修行中にイラクサのスープで命をつないでいたという有名なエピソードを紹介した。また、「草原のめぐみを食べよう その7 菜食主義牧畜民の食卓」 では、肉断ちをした牧畜民の食に頻繁に現れるトマ芋の溶かしバターがけについて述べた。それ以外に、「草原のめぐみを食べよう その4 すっぱさを求めて」で触れたが、タデ科の植物のランブが文化大革命期の食糧難の時代に食用にされているなど、野生植物は食材が限定されている際や非常時などに活用されていることがわかった。
野生植物の食利用からみえる牧畜民の生活
野生植物は、伝統的にチベットの食文化において利用されてきた。特に、野菜や果実の入手の難しい牧畜地域においてはその傾向は強かったようである。近年は、道路の整備も進み、街まで食糧を買い出しにでかける機会も増えてきたため、野生植物の比重は以前ほどは高くないようである。しかし、そんな中でも、野生植物には、「季節限定であること」、「保存して特別な時の食事に用いられること」、「修行や菜食、飢饉など食糧が限定されている時に食生活を支えていること」といった、他の食品とは異なる特徴があることがわかった。
また、現地で牧畜民の方々と一緒に野イチゴ やスナジグミを採りに行った時に感じたことは、植物の採集が夏の楽しみととらえられており、牧畜民たちが自然と付き合うひとつの方法になっているということだった。これまで、野生植物の食利用はあまり注目されることがなかったが、チベット牧畜民の暮らしや彼らと生態環境の関係を考える上でひとつの重要な視点であることはまちがいない。今後は、チベットに関する文学作品や、各種文献の情報も収集することで、野生植物の食利用について、時代的にも地域的にもより広い視野からせまっていきたい。
執筆の際に、以下の論文を参照しました。
Boesi, Alessandro (2014) Traditional knowledge of wild food plants in a few Tibetan communities. Journal of Ethnobiology and Ethnomedicine. 10: 75. (http://www.ethnobiomed.com/content/10/1/75)
Kang, Yongxiang et al. (2014) Wild food plants used by the Tibetans of Gongba Valley (Zhouqu county, Gansu, China. Journal of Ethnobiology and Ethnomedicine. 10: 20. (http://www.ethnobiomed.com/content/10/1/20 )
Kang, Jin, et al. (2016) Wild food plants and fungi used in the mycophilous Tibetan community of Zhagana (Tewo County, Gansu, China). Journal of Ethnobiology and Ethnomedicine. 12: 21. (https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4890536/)
文:海老原志穂
写真:海老原志穂、平田昌弘、星泉